全損保結成70周年記念シンポジウム 70年を語るパネルディスカッション たたかいとる力を高めるために企業の枠をこえて 2019年11月9日 於)主婦会館プラザエフ

全体司会
全損保常任中央執行委員  西田 俊彦
パネリスト
全損保中央執行副委員長  山本 佑亮 全損保書記長  荒木 紀彰
全損保副書記長  及川 肇  
フロアー発言
全損保中央執行委員  中島 美智子 元全損保日新支部  管野 啓一
元全損保R&S支部  長尾 洋史 元全損保ゼネラリ分会  居相 覚史
コーディネーター兼パネリスト
全損保中央執行委員長  浦上 義人



西田 西田 本日は、参加いただきありがとうございます。本日のシンポジウムは、70周年記念誌を素材に、より全損保を実感してもらうために、パネルディスカッション形式で開催します。みなさんには、このパネルディスカッションで感じたことを職場に戻って職場の組合員に語り広げていただくことを期待しています。少し長丁場になりますが、最後までシッカリ聴いていただきますようお願いします。それでは、コーディネーターの浦上委員長、よろしくお願いします。
浦上  1949年11月5日に結成した全損保が70年を迎え、その記念事業の柱として70周年記念誌を作成しました。本日のパネルディスカッションは、この記念誌を素材に、成果と教訓を語り、記念誌のタイトルである「たたかいとる力を高めるために企業の枠をこえて」をみんなで認識し、今後の活動に展望が持てるように構成しています。そして、参加しているみなさんが、感じたことを職場に持ち帰り、伝えてもらい、「全損保の70年」が全組合員に広がることを期待しています。(以降、コーディネーターの進行は割愛します)
 それぞれのパネラーには、それぞれ70年の歴史のなかで印象に残ったたたかいや、運動について話をしてもらう予定となっていますが、草創期のところは、私から報告します。

「まともに暮らせる賃金」、
「健全で民主的な事業運営・職場運営」、
「平和でこそ成り立つ損保産業」を共通の認識として
全損保結成へ

浦上 浦上  第1章の「全損保結成」です。戦後の日本はアメリカの占領下で、「日本民主化」の目標が掲げられ、1945年12月に「労働組合法」が公布されます。経営を民主化するために1946年になると「労働組合」が雨後の筍と評されるほど組織されていくこととなります。損保は、戦争中、戦時体制下の国策に組み込まれ、ほとんど実態のないものとされ、戦後、復興していく過程でも、職場は宿舎や倉庫などを間借りして業務をおこなっており、職場も、落ち着きがない状態だったと聞いています。そして、食料が不足し、日常品の物価が高騰するなど、生活することも困難な状況でした。そうしたなかで、損保でも、職場ごと、部支店ごと、企業ごとに労働組合としてまとまりはじめていきます。当時の損保労働者が強く求め、認識していたことは大きく3つになります。一つは、まともに暮らせる賃金を求めたということ。二つ目は、経営に健全で民主的な事業運営、職場運営を求めたということ。そして三つ目に、平和でこそ成り立つ産業であることの認識という、この三つになります。こうした要求と認識のなかで、企業ごとにまとまっていた労働組合が、連絡を取り合い、労働者の力を結集するために、戦後1年経った1946年11月2日、「損害保険従業員組合連合会(損保従連)」が結成されます。損保従連では、結成当初から、組織強化を目的として「単一化」の議論が続けられ、単一組織結成準備委員会を設置し、全国オルグのなかでは、「生活を守り平和と民主主義を守る」ためには、単一組織=全損保の結成がどうしても必要なことを組合員へ訴え続けました。3年にわたる単一化の努力が実り、1949年11月5日、全損保は結成されます。

GHQに抗して獲得した労働協約

   こうして結成された全損保は、早速、越年賃金闘争(年越しの餅代闘争)をたたかうとともに、「統一労働協約基準案」の論議を始めます。労働協約は、労働組合と経営者の間で取り決める約束ごとの基本になるもので、就業規則にも勝る労働者を守る防波堤です。第2章にあるとおり、それを損保全社で同様の質の高い協約を作るために統一的な案をつくり各支部が交渉していきました。占領政策に着手した当初は、わが国の民主化に力を注いだ連合国軍最高司令部(GHQ)でしたが、高まるいっぽうの労働組合の力を警戒しはじめました。各経営は、そうしたGHQの指導もあって、基準案での合意を拒み、交渉は難航します。最大の争点は、会社の合併・解散、事業計画、役員の選任などの重大な経営政策に対し、全損保の基準案では「組合の同意を得る」となっていたことでした。また、組合員の範囲についても、「課長以下」とする全損保に対し、GHQの案は「課長代理以下」となっていました。その中で、交渉を先行させていた日本火災支部(日火支部)の交渉には、日火支部役員と全損保本部役員、GHQの担当官も入って協議を重ねました。最終的には、基準案の趣旨に沿った労働協約を作り上げることになります。その後、各支部も日火支部の到達点を土台に、それぞれ基準案に即した内容の労働協約を締結していくこととなります。こうしたたたかいの成果は、記念誌8ページに掲載してある現在の共栄支部の労働協約を見ても明らかなとおり、経営の専権事項だからといって、組合との協議を抜きに好き勝手にできない高いレベルの協約を今でも維持しています。先ほど、労働組合ができていく過程で損保労働者の要求であった「経営に健全で民主的な事業運営、職場運営を求めた」ことが今もなお反映し続けていることになります。

産業としての統一要求・統一闘争で
処遇水準引き上げの土台を築く

   その後、第3章に記載のとおり、金融労働者が結集するなかで、春闘における全損保統一闘争が築き上げられていきます。そのたたかいの中から、全損保が春闘勝利にむけて、他の労働組合にはない闘争手段を編み出し、今も続いています。それは、1962年の春闘で初めておこなわれました。3つありますが、一つは、「統一基準」と「産業別最低賃金」をたたかいの柱に据えたことです。「統一基準」というのは、定期昇給の額にかかわらず、全損保全体で決めた額以上を要求するということでしたので中小も含めてその要求を立てて、交渉することによって損保全体の水準を引き上げたという成果を生みます。二つ目は、中央闘争委員長と支部闘争委員長の連署兼署での要求書提出です。このことで全損保が要求当事者となり、損保経営に圧力を与え交渉にも有利にはたらきました。最後に三つ目ですが、賃金闘争に対して、全損保のスト権を立てたということです。それも組合員全員投票で確立しています。これは全組合員が各々の支部の春闘を見守るということになり、経営にとっては、いざとなれば全損保全体のスト権を発動されるという圧力にもなっていました。

高まる運動、組織の発展と行政・経営の「合理化」攻撃

   こうした全損保の組織、運動、統一闘争が発展していくことに対して経営は、その力を弱くしたいと考えます。賃上げや臨給闘争のたびに、中心的存在であった大手支部の闘争を全損保統一闘争から切り離そうとして、全損保の闘争力を弱めようと攻撃を繰り返すことになっていきます。その背景には、高度経済成長の時代だということで、損保産業に対しては、@低料率と担保範囲の拡大、A投融資を中心とした金融機能の拡大が求められました。具体的には、大蔵大臣の諮問機関として設置された保険審議会の審議や大蔵省の指導を通じて、損保経営に対する「体質改善」の要求でした。「体質改善」とは、内部留保充実のための事業費や特に人件費の削減をはかる「合理化」です。経営にとって「理」に適う「合理化」というのは、労働者にとっては、労働強化以外の何物でもありません。こうした「合理化」に抗する全損保の運動が強まるなかで、行政、経営が全損保を敵視し、組織の弱体化を狙った分裂・脱退攻撃につながっていくことになります。その経過は、第4章に記載していますので、ぜひ、お読みいただきたいと思いますが、分裂・脱退によって、全損保は本当に大きなダメージを受けました。しかし、「おかしいことは、おかしい」と声を上げ続けた先輩たちは、経営や経営の言いなりになる人たちの本当に一口には言えないイジメや攻撃を受けながらも、各支部で全損保の旗を守り続けたからこそ、今の全損保があります。そして、その後、「住友闘争」が象徴的ですが、経営のすさまじい攻撃を受けても、「困った仲間がいたら駆けつける」、「譲れないものはどんな困難があっても譲らず全体でたたかう」という「全損保らしさ」を発揮して解決していくこととなります。




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