全損保結成70周年記念シンポジウム 70年を語るパネルディスカッション たたかいとる力を高めるために企業の枠をこえて 2019年11月9日 於)主婦会館プラザエフ

浦上 それでは、及川さんから「日動外勤のたたかい」について発言をお願いします。

「全損保らしさ」が実践された日動外勤のたたかい

首を切られると直感し全損保にとどまった

及川 及川  2004年10月の東京海上社と日動火災との合併を前に、2004年5月に全損保日動外勤支部に組織分裂が起こりました。全損保脱退を画策した執行部の説明では、東海社には外勤社員制度がないから、一つの労働組合になり、自分たちのことを理解してもらうことが合併後に制度を存続させるうえで必要とのことでした。結果、支部1,000名の組合員のうち、830名が東海日動労組に移り、170名が全損保に残りました。私がなぜ全損保に残ったかというと、ミレアグループが発足を発表した時(2002年4月)、経営が3年間で2,500名の人員削減を行うという発表をしたことにあります。これを聞いた支部組合員は、外勤社員が真っ先に首を切られると直感しました。自分の身を守るには「たたかう労働組合」全損保に残ることが一番大事だと思い、全損保に留まりました。
 1960年代に東海支部は、組織全体、機関役員、組合員という三段構えの攻撃を経営から受けています。日動外勤も大掛かりな組織介入を三度受けることになります。第一弾が、今、申し上げた分裂攻撃でした。第二弾が「コンプライアンス攻撃」とも言うべき労働管理の強化でした。2004年5月に組合が分裂してから会社が合併する10月までの5ヵ月間、東海経営は日動外勤支部を労働組合として認めず、交渉も一切できないなかで、みなし労働の労使協定があるにもかかわらず、「出退勤に関する規則と勤怠管理ルールの徹底」を強行実施し、9時出勤の義務化、1週間の行動予定表の提出などを求め、コンプライアンスを口実にこれまでのルール・慣行を無視した労務管理が行われました。また、外勤社員が代理店を新設して担当し手数料を受け取るという制度がありましたが、これを一方的に廃止しました。これによって100万円ぐらい年収が減る組合員もいました。さらには、自己申告で過去の不適正行為を報告すれば「処分はしない」として、過去に遡って報告させられ、私も訓告の懲戒処分を受けるなど、組合員の中にも不安が広がりました。そして、支部に対しては、時間内組合活動を一切禁止し、違反者には処分を行う、組合掲示板を撤去するなど不当労働行為も強まった時期でした。

制度廃止が強行される前に解雇を事前に差し止めたい

   そうした中、2004年8月、東京都労働委員会へ「不当労働行為救済命令」を申立てました。10月6日には、「外勤社員の出退勤に関する規則」違反で支部の委員長と書記長が懲戒処分(出勤停止2日間)を受けたことに対して東京地裁に懲戒処分無効を求めて提訴し、翌7日には、東京海上日動労組を相手取り組合財産返還請求を東京地裁に提訴するなど、法廷闘争が始まりました。
 合併直後の2005年10月7日、会社は外勤社員に対して、「2007年7月に契約係社員(外勤社員)制度を廃止する。会社を退職して代理店になるか、職種変更して継続雇用とするか、どちらかを選択しろ」と通知してきました。どちらを選択しても外勤社員にとっては、不利益なものでした。この時、外勤社員としてのキャリア、少しばかりあったプライドも傷つけられた私は、「こんな会社にいてやるか」と思ったりもしました。この通知を受け、支部は臨時支部大会を開催し、基本方針とたたかい方を確立しました。それは、「労使合意と組合員一人ひとりの納得なくして制度廃止は認めない」とし、
@外勤社員として継続雇用を希望する者には、全員、無条件で、外勤社員としての雇用を保証させる
A転進を希望する者には、代理店転進の場合も、職種変更による継続雇用の場合も、不利益な変更のない生活と労働条件を確保させる
という2点を一体の要求として、いずれもかけることなく実現していくというものでした。組合員は、自分の身の振り方をどうするのかとても悩んだ時期でしたが、自分の将来を自らが選択できるという方針を確立したことによって、みんなで頑張っていこうという気になりました。合併後、会社は支部を組合として認めていたので、会社との交渉を行っていましたが、会社は、労働条件等は協議するが、制度廃止の決定は会社の専権事項であり、通知事項であるから組合の合意は必要ないとの姿勢を取り続けました。さらに、2007年7月の制度廃止に先立って、「4月に人事異動を発令し、従わなければ解雇を検討する」との脅しをかけるなど、「ここまでするか」という感じがしていました。外勤社員は一度解雇となれば自分の顧客が他の保険会社や代理店に移ってしまうため、後から解雇が無効になっても取り返しがつきません。ですから、制度廃止が強行される前に、解雇を事前に差し止める地位確認を求めて2006年2月東京地裁に提訴しました。

勝利判決に支援の仲間が涙

   会社は提訴したことに対して、第三弾の組織介入をしてきました。それは、代理店に転進する者全員に支給される「転身支援金」を全損保組合員には支払わないというものでした。全損保から脱退すれば「転身支援金を払ってやる、転進希望の募集にも応じてやる」ということです。これを使って、組合員一人ひとりに職制を使って分断攻撃を仕掛けてきました。そのようななか、2006年3月の全損保中央委員会で、「東京海上日動経営の不当な攻撃に対し、毅然とたたかう日動外勤支部の仲間を全体で支える決議」が採択され、全損保全体でのたたかいに発展することになります。自分たちだけでなく、全損保の仲間が一緒にたたかってくれるということに勇気づけられました。自分自身は会社を辞めようと思っていましたが、この決議を聞いて、自分も全損保の仲間と一緒に頑張って、原告としてたたかっていこうと決断できました。
 こうした決議を受け、全損保全体のたたかいとして、運動面で大きな力を得ることができました。支援の規模は、記念誌の「解決を導いた運動の規模」にあるとおりです。とても日動外勤支部だけでは出来るものではありません。
 運動が広がるなかで、都労委から「実効確保の勧告」「不当労働行為救済命令」が出され、財産裁判でも和解で組合費の分割返還がなされました。そして、制度廃止以前に外勤社員としての地位を認める完全勝利判決をかちとることができました。自分自身では、運動を懸命にしたので必ず勝利判決をかちとれると思っていましたが、万が一を考えると判決前日の夜は眠れませんでした。判決後には多くの仲間から、「良かったね」「おめでとう」と声をかけていただき、中には涙を流して喜んでくださる方もいました。もし勝利判決が取れなければ制度廃止が強行され解雇されていたかもしれません。解雇の事前差し止めは私たち外勤社員にとって非常に大きなものでした。会社もさすがに判決を無視することはできず、即日控訴する一方で、私たちを「経過措置適用者」として、現行制度のまま働かせることを判断しました。私たちは今までどおり働きながらその後の闘争を続けることができたという意味でも大きな勝利判決だったと思います。

人間らしさと一人ひとりの思いを大切にする全損保

   舞台が高裁に移りさらに運動の輪、支援の輪は広がっていきました。とりわけ、ポスティングビラのとりくみを、毎週土曜日に行いましたが、朝から夕方まで、多くの仲間が自分のことのようにビラを撒いてくれていた姿が思い出されます。しかし、いくらビラを撒いても、抗議行動をしても、なかなか解決に向かわないことから、組合員の中には、苛立ちを感じたり、行動することに疑問を持つ人が出始め、組合員同士で意見が分かれる時も多くありました。そんな時、軌道修正をしてくれたのが全損保本部であり、朝日闘争をリードした大田決さんたちでした。そして、勇気づけてくれて、この次も頑張ろうと背中を押してくれたのは、自らが直面する問題と捉え、毎回毎回とりくみに参加し、励ましの言葉をかけてくれた全損保の仲間たちでした。感謝してもしきれません。そうした社会的批判を広げる運動と弁護団の最大限の努力が結びついて2010年2月、4年に及ぶ闘争が全面和解解決しました。外勤社員にとっても全損保にとっても納得のいく高い到達点だと思っています。外勤社員制度は残せませんでしたが、原告だけの代理店を会社に立ち上げさせ、そこで東京海上日動社の正社員として保険募集を続けています。もし、私たちが単独労組で、全損保という産業別単一組織がなかったら、このたたかいに立ち上がれなかったかもしれません。たとえ立ち上がっても途中で挫折していたと思います。人間らしさと一人ひとりの思いを大切にする「全損保らしさ」を肌で感じました。まさにこれが全損保の値打ちだと思っています。




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